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記事一覧

畠山重忠の乱について

畠山重忠と平賀朝雅の対立武蔵国畠山荘を本拠とする畠山重忠は、秩父郡など武蔵北西部に勢力を有する有力御家人です。彼は北條時政の先妻が産んだ娘(→政子や義時公と同母妹)を妻にしており、武蔵国留守所総検校職(そうけんぎょうしき)という地位にあり、武蔵国衙の在庁官人(→役人)の実質的な総責任者でした。これに対して武蔵南東部に勢力を有していたのが、武蔵守の平賀朝雅(ひらがともまさ)です。彼は北條時政の後妻牧の方が産ん...

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畠山重保供養塔(神奈川県鎌倉市)を訪問しました | らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~

当塾の公式ブログに二俣川合戦について書きましたので、本ブログにも転載いたします。畠山重保供養塔(神奈川県鎌倉市)を訪問しました | らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~...

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皇統の分裂は珍しくない

承久の乱と皇統の分裂 日本史を学んだ高校2年生以上であれば、壬申の乱(672年)以降に天皇家が天智系と天武系(→奈良時代の天皇はほとんど天武系)に分裂したことや、保元の乱(1156年)で後白河天皇と崇徳上皇が対立して院政期の皇統が混乱していたこと、あるいは治承・寿永の乱(1180年~1185年)のさなかに平氏が擁立する安徳天皇と後白河法皇が即位させた後鳥羽天皇が並立したことをご存知のことでしょう。もっと詳しい高校生なら安...

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京都守護とは

草創期の洛中警固奥州藤原氏を滅ぼして戦乱の時代を終えた源頼朝は、1190(建久元)年11月に入京し、後白河法皇や摂政九條兼実と交渉して朝廷との関係において鎌倉幕府がどのような役割を果たすのかを取り決めます。翌1191(建久2)年3月、陸海の盗賊や放火などの重犯罪人を頼朝(→もちろん配下の御家人)が取り締まることが宣旨で決定されました。三代制符と呼ばれる新制(→天皇・上皇の勅旨に基づく成文法典)の1つです。これにより鎌倉...

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六波羅探題の概要

成立期の六波羅探題の概要1221(承久3)年5月、後鳥羽上皇は宣旨を発して鎌倉幕府の執権北條義時公の追討を命じました。しかし、幕府は19万騎(→数字は『吾妻鏡』の誇張)にも及ぶ大軍を京都に向けて進軍させ、上皇軍を打ち破り入京します。東海道大将軍の北條泰時公と北條時房が京都の拠点としたのが六波羅で、六波羅探題が創設されます。泰時公は北方探題、時房は南方探題となり、承久の乱における京方の処分や新補地頭設置のための...

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伊賀氏の変について

1224(貞応4)年6月13日、源頼朝と並ぶ武家政権の創始者として認識され北條氏の地位を鎌倉幕府の中に強固に据え付けた従四位下前陸奥守、2代執権北條義時公が死去しました(→享年62)。寅の刻(→午前4時頃)に落飾して息を引き取る辰と巳の間(→午前9時頃)まで「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続け、最後は両掌を胸の上で組む外縛の拳印を結んでいたとし、『吾妻鏡』には「誠にこれ順次の往生と云ふべきか」と感嘆しています。午の刻(→正午頃...

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和田合戦について

1213(建暦3)年2月15日、鎌倉甘縄の千葉氏邸を訪れた僧阿静房安念を千葉成胤が謀叛人として捕らえ、北條義時公のもとに突き出してきたのが和田合戦の発端です。翌日安念の自白により、信濃国の住人泉親衡が一村・籠山・宿屋・渋河など130余人の武士を仲間にして、執権北條義時公を殺害して将軍源実朝を廃したのち前将軍源頼家の遺児千手を将軍に擁立するという陰謀を企んでいることが発覚しました。安念は千葉成胤をも仲間に引き入...

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寺社造営ブームと民衆運動

蒙古襲来を南都仏教の立場からみてみます。蒙古襲来の危機は寺社勢力にとって一つの好機になりました。それは、神戦(→神仏が天上で夷狄の神と戦う)を勝利に導いた寺社の戦功が、実際に命をかけて戦った武士と同等かそれ以上に評価され、多くの恩賞を獲得したからです。顕密仏教(→南都六宗・天台宗・真言宗)の中核である王城鎮守22社とその末寺末社は蒙古襲来を通じて勢力を回復しましたが、特に力を伸ばした宗派は「禅律僧」、顕密...

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永仁の蒙古襲来騒動

1293(永仁元)年は都市鎌倉にとってあまりにも異常な年になりました。年初より蒙古襲来の噂が流れ、幕府は博多に異国征伐大将を派遣し、異国降伏の祈禱が展開されました。蒙古(→元)の皇帝フビライ=ハンの意を受けた高麗使節が大宰府に至り、高麗の沿岸には日本派兵の軍船が終結しているというのです。それだけでも鎌倉の人々を恐怖に陥れるのに十分ですが、追い打ちをかけるように、4月13日に大震災が鎌倉を襲いました。 「天...

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新田義貞挙兵への足どり

病気と偽って新田義貞が楠木正成攻めの陣を引き払って帰国したのは1333(元弘3)年3月半ば(→鎌倉攻めの約2カ月前)ですが、『太平記』は陣中で執事船田氏の尽力により後醍醐天皇の綸旨(→護良親王が発した偽綸旨)を入手して討幕の名目ができていたと記します。しかし、新田義貞に討幕の動機などあったのでしょうか。義貞が挙兵に踏み切ったのには偶発の要素が多分に働いていたからです。帰国した義貞を待っていたのは有力な得宗被官(御...

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鎌倉時代の新田義貞

『太平記』は足利高氏と新田義貞を宿命のライバルと位置付け物語を脚色していますが、この描写がいかに「あり得ない」ことが分かるでしょうか。鎌倉時代の足利氏が「源氏の嫡流(棟梁)」ではなかったことは以前書きましたが、新田氏についても同じことがいえます。それどころか鎌倉時代の新田氏は北條氏の縁者・与党として一定の勢力を保っていた足利氏のライバルになり得たのでしょうか。南北朝時代、足利方に属した新田一族の山名...

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足利氏の所領管理

鎌倉時代の足利氏は北條氏とよく似た所領の支配機構をもっています。足利氏は北條時政の娘を妻とした足利義兼(2代目)以来、幕府の最も有力な御家人の1つであり、足利惣領家は義氏・泰氏・頼氏・家時・貞氏・高氏と、代々北條氏嫡流ないし一門の女性を妻に迎え、外様御家人筆頭として繁栄を保ってきました。足利氏の所領は三河・上総の守護、下野の足利荘を中心に陸奥・上野・相模・能登・丹波・美作・備前など広範囲に及びます。北...

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得宗領の管理 -給主代ー

北條氏一門の所領は霜月騒動後、全国的に急増しました。鎌倉末期の若狭国(福井県南部)の得宗領は、大田文(惣田数帳)で判明しているものだけでも惣田数の32%、北條氏一門の所領を加えると38%に及びます。そのうち22カ所(約5%)は得宗被官(御内人)の押領によって係争中という記録が残されています。九州や関東に目を向けてみると、日向国(宮崎県)では惣田数の64.5%、大隅国(鹿児島県)は同31%、常陸国(茨城県)は同22.7%が北條氏...

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[高校生向け] 夏目漱石『こころ』について

1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御しました。同日、改元の詔書が公布され「大正」と改元され、皇太子嘉仁(よしひと)親王が即位(大正天皇)しました。なお、日露戦争の英雄で学習院長の乃木希典(のぎまれすけ)大将は、明治天皇の大喪の日(1913年9月13日)の夜、静子夫人と共に自邸で殉死します。これに強い感銘を受けた夏目漱石は『こころ』を、森鷗外は『興津弥五右衛門の遺書』を執筆しましたが、白樺派の志賀直哉や芥川龍之...

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ハレー彗星の接近と貞時公の突然の出家

1301(正安3)年8月22日、時期としては正安の蒙古襲来の直前にあたりますが、9代執権北條貞時公がは娘婿の北條師時(得宗家宗政流)に執権を譲り出家しました。31歳で、法名は崇暁(のち崇演)。祖父の北條時頼公と同じく出家後も得宗として権力を掌握しますが、1305(嘉元3)年の嘉元の乱を境に政治から離れていきます。1301(正安3)年4月12日に従四位上に昇叙し、権力の絶頂にあった貞時公がなぜ執権を辞し出家したのでしょうか。ここに中...

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島津忠宗宛 関東御教書

9代執権北條貞時公と連署大仏(北條)宣時が8代将軍久明親王の仰せを受けて(→という形式)、薩摩国守護の島津忠宗に発した関東御教書があります。これは1293(正応6)年に書かれたもので、内容は3度目の蒙古襲来に警戒するよう命じたもので、前回紹介した「寺田太郎入道宛」の文書と内容が似ていますが、鎮西探題の始まりを告げる文書でもあります。なお、御教書とは三位以上(→公卿)及びこれに准じる人の意思を伝える文書のことで、鎌倉...

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異国征伐令② -天人相関説-

異国征伐(高麗出兵)にあたり、8代執権北條時宗公は北條氏一門の「器量人」を守護として下向させ、西国守護を大幅に異動させました。北條氏が従来の御家人を排除して西国一帯に勢力を伸長させたと受け止められることが多いのですが、この異動の背景には「天人相関説」という儒教の政治思想があるのです。天人相関説とは、地上で王や皇帝の悪政が行われた時、天がそれに警告を発するという中世社会において広く浸透していた思想です...

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異国征伐令① -敵基地攻撃論ー

第1次蒙古襲来(文永の役)の後、幕府が蒙古の再襲来に備えて行った対策は異国警固番役の強化と石築地構築だけではありません。1275(建治元)年12月、8代執権北條時宗公は大宰府守護武藤(少弐)経資に次の3点を命じました。(1)翌年3月に異国征伐を実施する事(2)九州諸国に梶取(かんどり)・水手(かこ)の用意をする事(3)九州で不足する場合は山陰・山陽・南海道諸国の守護に不足分の梶取・水手を用意させる事同時に、山陽道などに属する...

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元弘の変における幕府軍の動員令

後醍醐(先帝)が隠岐に流されている間、討幕活動をしていた第一人者は護良親王(後醍醐の子)です。彼は天台座主尊雲法親王と呼ばれていた頃から「行学(→仏道の修行修学)ともに捨て果てさせ給(たま)ひて、朝暮ただ武勇の御嗜(たしな)みの他は他事なし」という粗暴な人物あり、『太平記』は、彼のような天台座主は叡山始まって以来の「不思議の門主」であると評しています。そして、「東夷(→鎌倉幕府)征伐のために御身を習はされける武...

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寺田太郎入道宛 関東御教書

1281(弘安4)年閏7月1日の暴風雨と鷹島等の掃討戦などによって第2次蒙古襲来(弘安の役)も幕府軍の大勝利に終わりました。これによって蒙古は壊滅的打撃を受けて退きましたが、それから10日後の閏7月11日、8代執権北條時宗公は播磨国の御家人寺田太郎入道に宛てて蒙古の攻撃を防ぐよう命じる書状(関東御教書)を送っています。弘安の役の後も、時宗公がいかに蒙古を警戒し、心労を重ねていたかが分かります。*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-...

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武蔵守

管理人:武蔵守
北條一族の誤解を解きイメージの回復に努めようという金沢流北條氏傍系子孫の悪あがきです。歴史学の立場から「公平」に事実をみていきたいと思います。

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羅針盤ゼミナールにてマンツーマン・オンライン指導による日本史専門講座「北条塾」を主宰しています。当塾のお勉強ブログ「武田勝頼公と北条夫人の部屋」と当塾公式ブログ「らしんばん航海日誌 ~探訪という名の歴史旅~」も執筆中です。よろしくお願い致します。

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